ブラック企業からの脱却!人を大切にすることを追求してたどり着いたDX #前編

2025年9月30日

株式会社 四日市事務機センター(YONJIMグループ)
代表取締役 佐野 智成氏

取材:2025年8月22日

株式会社 四日市事務機センター(YONJIMグループ)
代表取締役 佐野 智成氏

パン屋の2階で育った少年が、20億円企業の社長になるま

半袖短パンで駆け回った「やんちゃ坊主」の原点

―社長は会社の創業とほぼ同時に生まれたとお聞きしました。どのような幼少期を過ごされたのでしょうか

幼稚園の年長で四日市に引っ越してきました。父が会社を創業したのが1974年の1月で、僕が生まれたのが同じ年の11月。

ちょうど母のお腹にいる時に会社が誕生したので、僕にとっては“お兄さん”のような存在ですね。

父と母が立ち上げた会社で、2人ともがむしゃらに働いていました。家は裕福ではなく、私は妹とずっと2人で遊んでいました。

当時はパン屋さんの2階に住んでいたので、自分はパン屋の息子だとばかり思っていましたね。

―学生時代はどのように過ごされていたのですか?

学校の方が楽しかったので、いつも友達と遊んでいました。

1年中、半袖短パンで元気に走り回っていました。スポーツも何でもやりましたが、長続きしなくて。剣道、水泳、そろばん、習字…どこへ行ってもいたずらばかりして、すぐに退学になっていました。

ただ、高校時代からアルバイトはたくさんしていて、先輩たちから知らない世界を学ぶのが楽しかったです。

稼いだバイト代は、自分のものより父へのプレゼントなど、誰かを喜ばせるサプライズに使うことが多かったですね。

学校行事の幹事もよくやっていて、人を集めて企画するのが好きでした。その頃から商売っ気があったのかもしれません。

「父さんの会社、すげえな」Canonのロゴを見て勘違いした少年時代

―ご両親が何の仕事をされているかはご存じなかったのですか?

周りからは「Canonの息⼦」と呼ばれていて、F1マシンのCanonのロゴを見るたびに「父さんの会社、すげえな」と本気で思っていたんです。

今でこそ20億円規模ですが、少年時代はスケール感を取り違えていました。

子どもの頃の写真

鉄とゴムを分ける日々から学んだ「商売の厳しさ」

―幼い頃から、ご実家の商売を手伝うようなことはあったのでしょうか?

小学校から帰ってくると、妹と一緒に鉄とゴムを分ける作業をしていました。ゴムがついていると鉄の価値が安くなるので、ひたすらそれを切り離すんです。

当時は世界中の子どもたちが全員やっていることだと思っていました。

1週間かけて作業して、土曜に父がそれを売りに行き、渡されるのは2人で100円。今思えばすごい労働搾取ですよね(笑)。

でも、その100円で駄菓子屋に行けば2人で笑顔になれた。父から商売の厳しさを、身をもって学んだのかもしれません。

「お前はここにいる意味がない」支店長の一言が変えた人生

名古屋で過ごした「最悪な時間」からの転機

―社会人としてのキャリアは、Canonからスタートされたのですね。

専門学校を出てから20歳の時に名古屋のCanonでお世話になりました。そこではずっと飛び込み営業をしていたんですが、全然売れませんでした。というより、まともに営業していなかったんです。

朝9時にラジオ体操が始まったら僕の仕事は終わりみたいなものでした。夕方5時半に帰ってきて彼女と遊びに行くという、今思えば最悪な時間を過ごしていました。

―そこから何がきっかけで変わったのでしょうか?

支店長が交代になり、呼び出されて「実家に帰りなさい。お前がここにいる意味はない」と一喝されました。「1週間会社に来なくていいから、自分の将来を本気で考えろ」と。

もちろん、もらった休みはめちゃくちゃ遊びましたけどね(笑)。

報告の前日まで考えさせられましたが、将来を考えれば、実家に帰るわけにはいかないと思っていました。支店長への返答は「帰りません」という言葉でした。

手紙で始まった師弟関係―斎藤昌恭さんとの出会い

― 「帰りません」の一言が、大きな転機になったのですね。

僕の返事を聞いた支店長は即座に、「来週から大阪だ。寮に入り、営業を一からやり直せ」と命じました。さらに「毎月3日までに、今の心境と実績を手書きで報告しろ」と。

この手紙のやり取りが、支店長・斎藤昌恭さんとの師弟関係の始まりで、私を根本から変えるきっかけになりました。

― 手紙のやり取りは、どのようなものだったのですか?

幸い、大阪でたまたま結果が出て、書く内容がありました。半年ほどして実績をつい盛って報告したら、叱責どころか「よくやった」と称賛の電話が来たんです。

申し訳なさと同時に“認められる喜び”を初めて知り、仕事が一気に楽しくなりました。

― 斎藤さんとの関係はその後も続いたのですか?

はい。大阪で出会った妻との結婚を決めた時に、ご報告に伺いました。すると「お前が結婚するなら、俺に仲人をさせろ」と言ってくださったんです。

その時に初めて、なぜあれほど気にかけてくれたのか理由を教えてくれました。

斎藤さんの息子さんと僕の名前が、漢字も読みも全く同じ「智成(ともなり)」だったんです。学年も一つ違いで、僕の姿が重なって見えたそうです。

「会った瞬間に変なやつだと思ったけど、全く違う人間になったな」と言ってくれた時は、本当に嬉しかった。恩師からもらった手紙は、今も家の書斎に飾ってあって、辛い時にはそれを見て元気をもらっています。

額に飾られた恩師からの手紙

「佐野さん、神様」営業の醍醐味を知った大阪時代

ー大阪での営業はいかがでしたか?

 訪問先でPCを直したり、Excelを教えたりすると「佐野さん、神様」と感謝されるんです。自分が認められたような気分になりました。

それから、天王寺区というテリトリーで本当に一生懸命、ゼロから飛び込み営業をしたんです。

自転車で駆け回り、スーツを擦り切らせながら飛び込みを重ねた日々で、お客様との関係づくりの醍醐味を知りました。

会社が成長すれば、お客様と共にずっと成長できるんだというのを、その時に感じましたね。

1,000万円の詐欺被害と賞与後の退職の連続

古い車に乗り続けることになった「高い授業料」

―四日市に戻られてからは、順調でしたか?

いえ、挫折の連続でした。

まず、帰郷して1年も経たないうちに、1,000万円規模の詐欺被害に遭いました。実績を上げたくて必死だった大きな商談で、相手に騙されてしまったんです。

四日市に戻ってすぐ、800万円ぐらいやられたので、かなりのダメージでした。

賞与の翌日に来なくなる社員たち

―他に辛かったご経験はありますか?

 一番辛かったのは、人が辞めていくことでした。自分が採用した若い子が、ボーナスを支給した翌日に会社に来なくなるんです。

父と喧嘩しながらやっとの思いで賞与を出していたので、その時は止めていたタバコに思わず火をつけてしまいました。それが最後の一本になりましたが、それくらいショックでしたね。

「全てが先生」素直さが生んだ成長への転換点

―そうした厳しい経験から、どのようなことを学ばれましたか?

 人を尊敬するということを学びました。自分には何もないから、出会う人、見るもの全てが先生なんです。

お客様はもちろん、新入社員からも学びますし、嫌いな人からでさえ「こうなってはいけない」という逆の尊敬を学びました。

もともとは頑固な性格でしたが、素直に「すごいな」と思ったら、真似して取り入れる。その素直さが、自分の成長に繋がった気がします。

ー他にご自身の成長につながった経験はありますか?

26歳で入会したJC(青年会議所)での経験も大きな転機となりました。

若くして成功している経営者の先輩方から、企画力やリーダーシップ、会議の進め方など数多くの実践的なスキルを学ぶことができました。

人前で話す度胸や調整能力も鍛えられ、三重県への愛情が深まったのもこの頃です。

会社情報

会社名株式会社四日市事務機センター(YONJIMグループ)
所在地三重県四日市市日永西2丁目18番地7号
業種卸売業、小売業
事業内容・クラウド活用とDXでオフィスの働き方ソリューションの提供
・セキュリティソリューションの提供
・オフィス関連のハード・ソフト販売、修理・保守・管理
従業員数34名(グループ全体48名)
ホームページhttps://www.yj-c.co.jp/

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